悲劇のピアニスト、久野久

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今日は松屋浅草に行ってきました(お客さんとしてだけど 笑)。
用事があって九州から東京に来ていたにゃん子の従妹が
松屋に足を運んで下さるというので、
ご案内しがてら私もやってきたというわけです。
今日松屋当番だったくまきちのお昼休憩に合わせて、
3人で「並木藪蕎麦」に赴きおそばをいただき、
それから昭和レトロな雰囲気そのままの「神谷バー」でお茶をし、
そして松屋浅草古本まつりへ。
会場はさすがに土曜だけあってお客さんも多く、
とても賑わっていてホッとしました。
今日はゆっくりじっくり時間をかけて棚を見ることができました、
幸せ〜〜(´∀`)
Cちゃん、今日はゆっくりお会いできて嬉しかったです、
結婚式楽しみにしてます!そして大変だけれどとてもやりがいのあるお仕事、
体に気をつけてがんばって下さいね。
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今日は「永遠の青春ルドルフ・ヴァレンチノ―彼の劇的な生涯とその作品」
「明治東京畸人伝(森あゆみ)」、その他ミステリー本など購入。
ヴァレンチノ好きだからすごく嬉しいわ〜〜!

永遠の青春ルドルフ・ヴァレンチノ―彼の劇的な生涯とその作品 (1983年)

永遠の青春ルドルフ・ヴァレンチノ―彼の劇的な生涯とその作品 (1983年)

明治東京畸人伝

明治東京畸人伝

「明治東京畸人伝」のほうは、日本のクラシック黎明期の女性ピアニスト
久野久(ひさの・ひさ)のことが載っていたので思わず買ってしまいました。
(※以下は「明治東京畸人伝」からの抜粋です)
久野久(1886〜1925)は東京音楽大学(現・芸大)出身のピアニストで、
足の障害を持っていたことや、
頭につけていた花かんざしが飛んでしまうほど
エキセントリックで激しい身振りの演奏、
弟子達への厳しい教え方など、様々なエピソードで神話が形作られているそうです。
東京音楽大学助教授・教授にも就任し、
日本でピアニストとしての地位を確立した久野久
しかし残念なことに、当時まだ三流の教師しかいなかった音楽学校で
彼女が受けた教育水準は低いものだったそうで、やがて不幸な結果を招きます。
1923年、久野久は「世界のピアニスト」を夢見てベルリンに渡りました。
音楽学者、兼常清佐(かねつね・きよすけ)は彼女と親しく、
彼女がベルリンに赴いたときに最初の下宿の世話もしたそうですが、
冷静で正直な耳を持った優れた評論家であった彼の言葉によると、
「彼女の指は相当強かったし、また相当速くも動いた」
しかし、
「その彼女をすでに出来あがったピアニストとしてドイツに送ったのが
 そもそも事の間違いの始めである」
「ニホンは知らず知らずこの哀れなる天才を弄んでいた。
 ピアノを聞く代わりに熱情を聞いていた。」
「ピアノの技巧の不備な所を逸話や、生活に対する同情や、
 空虚な文学的な形容詞などで補うていた・・
 しかしベルリンではもはや逸話も同情も用をなさぬ。
 ピアノはただ強く速くたたきつける事ばかりが熱情と努力の現れではない。
 ピアノはまず純粋にピアノでなくてはならぬ」
兼常に「ニホンで不健全にかち得た盛名を捨てよ」と言われた久野は
「私にはもう年がない。力もない!」と叫んだそうです。
ベルリンでの演奏会の夢は絶たれ、久野は1924年、ウィーンに移りましたが、
しかしそこで受けたレッスンは今までの彼女の奏法の完全な否定でした・・・
1925年4月20日、ウィーン郊外の温泉地バーデンのホテルの屋上から、
和服姿の久野久は飛び降りて命を絶ちました。
「久野女史は正に過渡期のニホンの音楽界の犠牲である」と兼常は悼んでいます。


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